歴史

設立

1899年にヘンリー・フォードを擁してヘンリー・フォード・カンパニーが設立されたが、フォードは経営陣との対立で会社を去り、1902年、機械メーカーの工場長であったヘンリー・マーティン・リーランドが請われて後任となった。

デトロイトを開拓したフランス貴族アントワーヌ・ロメ・ドゥ・ラ・モト・スィゥール・ドゥ・カディヤック (Antoine Laumet de La Mothe, sieur de Cadillac) に因んで社名とブランドを「キャデラック」に変更し、1902年10月に一号車を完成し、1903年から自動車の本格生産を開始した。

高品質

リーランドは精密加工技術の権威であり、その指導のもとに作られたキャデラックは高品質であるだけでなく、黎明期に手作りで作られていた自動車の欠点であった部品互換性の悪さを最初に克服した自動車の一つとなった。1908年には、イギリスのイギリス王立自動車クラブ(RAC)による部品互換性テストに合格して、RACから「デュワー・トロフィー」を受賞している。

1909年にはゼネラル・モーターズ(GM)の設立者であるウィリアム・C・デュラントの求めに応じてGMグループ入りし、以後はGMの最高級レンジを担うモデルとして生産されている。

リーランドの離別

リーランドは第一次世界大戦中に連合国軍を応援するための軍需品製作をしないGMに愛想を尽かし、リバティエンジンを製作するために自身でリンカーン社を設立した。

この会社は第一次大戦後高級車を製作したが、すでに大衆車の時代でありフォード・モーターに破格の値段で買収され、フォードの経営の元で安定を得、ブランドとしてキャデラックのライバルとなった。

先進技術の採用

キャデラックの特徴として、古くより先進技術を積極的に取り入れたことが挙げられる。特に、世界初の実用的なセルフスターターの搭載(1912年)は初期における顕著な功績である。

これ以降にも、世界初の量産V型8気筒エンジンやV型16気筒エンジン、シンクロメッシュ・ギアボックス、ダブルウィッシュボーン式前輪独立懸架の実用化、パワーステアリング、ヘッドランプの自動調光システム、エア・コンディショナーの搭載など、近代の乗用車の技術革新に大いに貢献し、これらの新技術はのちにヨーロッパや日本をはじめとする世界各国の自動車会社が模倣するようになった。なお、キャデラックは世界で唯一「デュワー・トロフィー」を2回受賞した会社となった。

高級車の代名詞

これらの世界の最先端を行く先進技術の導入により、世界各国で高いブランドイメージを確立した1920年代から1930年代にかけては、歴代のアメリカ大統領や各国の王侯貴族から、ベーブ・ルースやジョー・ルイスなどのスポーツ選手、更にアル・カポネのようなマフィアまでが愛用し、ヨーロッパのロールス・ロイスやイスパノ・スイザ、アメリカのデューセンバーグやパッカードなどと並び、高級車の代名詞的存在となった。

これらの裕福なオーナーの多くは、V型16気筒エンジンを搭載したシャシにそれぞれのお気に入りのコーチワーカーでボディを架装し、同時に上記のような最新技術をオプションで装備させ、自らの好みの1台に仕上げた上にコンクール・デレガンスに出品し、その豪華さを競い合った。

「ラ・サール」

1928年からは兄弟ブランドである「ラ・サール」を設立し、年々豪華さを増してゆくキャデラックより内外装の装飾を簡略化した廉価なモデルを発売することで、新たなユーザー層の獲得を狙った。

当初より販売は好調で、ラインナップを増やしていったものの、ビュイックやオールズモビルなどの、GMグループ内の他の中位ブランドとの競合などの理由から1940年に廃止された。

大恐慌

1930年には世界初の乗用車向けV型16気筒エンジンを発売し、ラインナップを拡充したものの、前年に起きた世界大恐慌により1930年代前半は販売台数は他の自動車会社とともに低迷を続けることとなった。

しかしその後フランクリン・ルーズベルト政権によるニューディール政策の導入などにより、アメリカ国内の経済が回復してきた1930年代後半にはその販売台数は回復し、流麗な大型ボディにV型8気筒やV型12気筒の大排気量エンジンを搭載した高級車を作り続けた。

第二次世界大戦

好調な販売を続けるかに思えたものの、1939年9月の第二次世界大戦開戦と1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、アメリカが戦時体制下に入ったことを受けて新モデルの開発は凍結されることとなった。さらに戦時体制下で燃料の配給制が導入されたことを受けて、燃費に難があるV型16気筒エンジンも廃止されることとなった。

なお、第二次世界大戦中においても、アメリカ政府の上層部をはじめ、ドワイト・D・アイゼンハワーやダグラス・マッカーサーなどのアメリカ軍の指導部もキャデラックを利用していたこともあり、モデルチェンジを行わないまま少数の生産が続けられた。

戦後型

1945年8月の第二次世界大戦の終戦後暫くは、戦前型のマイナーチェンジモデルを作り続けることとなったが、初の本格的な戦後型として終戦直前より1から開発された1948年型は、当時のGMのデザイン担当副社長のハーリー・アールの薫陶を受けたフランクリン・Q・ハーシェーによって、自動車業界初の曲面ガラスとピラーレスハードトップ、そしてロッキードP-38戦闘機をモチーフにし、その後世界的に流行したテールフィンを備えた先進的なデザインを施され、大きな反響を呼んだ。

なおこの頃より、当時のGMの会長であるアルフレッド・スローンによって発案され1949年から開始された、GMが自社のコンセプトカーをアメリカ国内にくまなく展示するために開催した巡回式モーターショーである「モトラマ」向けに開発したコンセプトカーのデザインを取り入れることが多くなった。

また、好景気による販売台数の増加や新技術の進展を受けて、「イヤーモデル」という形で、「モトラマ」で発表された新デザインのモチーフを取り入れた意匠変更や、新技術の導入を行ったモデルチェンジをほぼ毎年行うようになった。

絶頂期

さらに1950年代に入ると、クロームメッキを多用した「ダグマー・バンパー」と呼ばれるバンパー一体型のフロントグリルやデュアルヘッドランプ、更に巨大化したテールフィンなどの豪奢なエクステリア・デザインと、エア・サスペンション、パワーステアリング、ボタン選択式オートマチックトランスミッション、自動調光ヘッドランプなどの当時の最新技術を備えた新型モデルを、矢継ぎ早に市場に投入した。

特にボブ・シールクとデービッド・R・ホールズがジェット戦闘機とロケットをイメージしてスタイリングした、6メートル近い全長に巨大なテールフィンとデュアルヘッドランプ、クロームメッキとホワイトリボンタイヤを備えた1959年型は、好景気に沸く1950年代のアメリカのアイコンの1つとなった。

ハーリー・アールの後を継いでビル・ミッチェルがデザイン担当副社長となった直後の1960年型からは、これまでとは打って変わって巨大なテールフィンや過剰なクロームメッキは姿を消したものの(巨大なテールフィンについては、消費者団体などからの批判があったことから、1960年代前半には他のブランドでも一斉に姿を消した)、イタリアのカロッツェリアであるピニンファリーナとのコラボレーションにより様々なショーモデルを発表し続け、そのデザインを市販車にも流用した。

特に1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領のファーストレディで、当時その優雅なファッションが世界各国から注目を集めていたジャクリーンからインスピレーションを受け、イタリアのピニンファリーナがスタイリングし、1961年のパリ・モーターショーで公開された「ブロアム・ジャクリーン」のデザインモチーフは、1960年代のキャデラックに数多く流用された。

その後もキャデラックの優雅なスタイルと最新技術は世界各国の高級車に大きな影響を与え続け、1970年代前半にかけては販売台数が増え続けただけでなく(なお、1973年には過去最高の販売台数を記録した)、その名声も絶頂期を迎え、エルビス・プレスリーやリベラーチェ、ジョー・ディマジオや宋美齢、アーガー・ハーン4世や力道山などの世界中の大富豪やセレブリティ、スーパースターらが愛用し、併せて多くの映画にも登場した。

「セビル」

1970年代前半に巻き起こったオイルショックの影響を受けた、アメリカ市場におけるアメリカ車全体のダウンサイジング化と低燃費指向に対応すると同時に、アメリカ製高級車に比べてサイズが小さく、燃費に優れた(その上価格が高かった)メルセデス・ベンツのミディアムクラス(現Eクラス)やSクラス、BMWの5シリーズや7シリーズなどのヨーロッパ製の高級車への対抗車種として、1975年に「セビル」を発売した。

セビルは全長が5メートル強とサイズこそ小さくなったものの、内外装のスタイルはこれまでのキャデラックのものを踏襲し、優雅さを残していた。また装備も他のキャデラックと同等のものを備えた上、キャデラックとして初の電子制御式燃料噴射装置を標準装備するなど、当時の低燃費指向に対応した装備を備えていた。当時のキャデラックとしては最も価格が高かった(リムジンを除く)にもかかわらずヒットし、さらに1978年には、2トーンカラーや高級な革素材のシートなどを奢った上級バージョンの「セビル・エレガンテ」を追加した他、1979年にはイタリアの高級ファッションブランドである「グッチ」バージョンを販売するなど、キャデラックの看板車種の1つとなった。

1980年には、1930年代のダイムラーやロールス・ロイスを彷彿とさせるリアスタイルを持ち、前輪駆動化した他、シリンダー・カットオフ機構などの省燃費機能を導入した2代目に進化した。2代目にはキャデラックとして初のディーゼルエンジンやトリップ・コンピューターなど数々の新機構を導入し、引き続き好調な販売を維持し続けた。

「シマロン」

さらに1982年には、高価格セグメントへの参入を狙っていた日本車や小型ヨーロッパ車との競合やキャデラックのオーナー層の高齢化への対処、さらにアメリカ政府により各自動車メーカーに課された「CAFE(Corporate Average Fuel Economy=自動車会社ごとの平均燃費規制)」に対処するために、創業当初の1914年以来、67年ぶりの直列4気筒エンジンを搭載した上、ディーゼルエンジンを用意した。さらにシボレー・キャバリエやポンティアック・サンバード、ビュイック・スカイホークやいすゞ・アスカなどの他のGMの量販小型車で使用していた前輪駆動の「Jプラットフォーム」を流用した小型キャディラックである「シマロン」を導入した(導入当初は「シマロン・バイ・キャデラック」と称し、正式なキャデラックブランドとしては扱わなかった)。

シマロンはアメリカ市場の低燃費指向に対応した新世代の小型キャデラックとして、当時のアメリカにおける日本車の最上級車種であるトヨタ・クレシーダや日産・マキシマ、さらにメルセデス・ベンツ 190EやBMW 3シリーズ、アウディ4000などの上級小型ヨーロッパ車を主なターゲットとし、約12,000ドルとヨーロッパのライバル社に比べ廉価に設定しつつ、パワーステアリングやエアコンを標準装備し、さらに本革シートや自動調光ヘッドライトをオプション設定するなど、他の「Jプラットフォーム」のGMの小型車に比べ装備を充実することで差別化を演出していた。

しかし、部品共通化にこだわるあまり、キャバリエやスカイホーク、オールズモビル・フィレンザなどの他のGM車との差別化に失敗し、初年度から販売は低迷した。1983年には内外装を大幅に充実させ、さらに「キャデラック・シマロン」と改名し、1985年にはV6エンジンを追加導入した他、フロントグリルのデザインをほぼ毎年のように変えたにもかかわらず、販売的には大失敗に終わり1988年には姿を消すこととなった。

ダウンサイジングとFF化の進行

セビルの成功を受け、フリートウッド・ブロアムやエルドラド、デビル(当時の日本名フリートウッド・エレガンス)などの他の主力モデルも、相次いでダウンサイズおよびエンジンの小排気量化を進めることとなり、フルサイズのデビルは1985年に前輪駆動化を伴う大幅なダウンサイズを行う。フリートウッドも1985年に大幅なダウンサイズを行ったが、1986年もダウンサイズ前のものが在庫販売され、1987年からダウンサイズ前のフリートウッドは「ブロアム」に改名し販売された。

フリートウッド・ブロアムは1989年に同じくダウンサイズを行ったがダウンサイズ前のフリートウッド・ブロアムはフリートウッド同様ブロアムを後継にし続行生産された。さらに1980年の2代目セヴィルの登場と同時に、これまではフルサイズであったエルドラドはセビルとほぼ同じサイズにダウンサイズし、セビルの2ドアモデル的性格が与えられた。

「アランテ」

1987年には、アメリカ市場において高い人気を誇っていたメルセデス・ベンツSLクラスやジャガー・XJSなどのヨーロッパ製高級クーペ、及びコンバーチブルの顧客を狙った、2人乗りコンバーチブルの「アランテ」を導入した。イタリアのピニンファリーナがスタイリングしたボディと、内外装の高品質な作りは好感を持って受け入れられた。

しかし、生産工程において、アリタリア航空のボーイング747―200Fの専用貨物機で半完成状態のボディをイタリアのピニンファリーナの工場に送り、内外装を仕立てた上でアメリカに送り返しエンジンとトランスミッションを備え付けるという、手間とコストがかかる工程を採用したため、エルドラドの約2倍の54,700ドルという、当時のキャデラックのラインナップで最高価格となったこともあり販売は伸びなかった。なお、この生産方式は、「世界一長い生産ライン」と例えられた。

1989年には4500ccのエンジンに切り替え、翌年にはトラクションコントロールを装備。さらに1993年には最新鋭の「ノーススター」4600ccエンジンを搭載するなど度重なるマイナーチェンジを行ったものの、売上は向上しないまま1993年に生産中止となり、後継車種は設定されなかった。

迷走

アランテの導入に先んじて1986年に導入された3代目セビルと、セビルと同時にモデルチェンジを行ったエルドラド、そしてデビルやフリートウッドなどの殆どの主力車種に対して更なるダウンサイズを進めるとともに、ビュイック・ルセーバーやオールズモビル・98リージェンシーなどの前輪駆動の量販大型車とプラットフォームをはじめとする大幅な部品共通化を行った。また同時に、法人需要やリムジンへの換装向けに多く使用されるフリートウッドブロアムやブロアムなどの一部車種を除く殆どの主力車種が前輪駆動化された(1990年代に後輪駆動に戻されたモデルもある)。

キャデラックは1940年代よりビュイックやオールズモビルの上級車種との部品共通化は行ってはいたものの、シマロン以降の行き過ぎた部品共通化と、前輪駆動モデルにおける急速なダウンサイジングは他のGMブランドとの間の差別化の失敗を招いたばかりでなく、同時に行ったコスト削減は品質低化を招くこととなり、結果的にブランドイメージが下落した。

さらに1980年代後半に入ると、これまでの競合相手であったリンカーンやヨーロッパの高級ブランドのみならず、ホンダの上級ブランドである「アキュラ」や日産自動車の「インフィニティ」、トヨタの「レクサス」などの上級移行してきた日本車との直接競合にもアメリカを含む各国の市場でさらされるようになる、さらにアメリカ市場における顧客の平均年齢が「65歳から老衰死者まで」と言われるほどに上昇することとなった。

ブランド再生

この様な状況を受けて、1988年に「シマロン」を廃止したほか、1997年にはオペル・オメガのバッジエンジニアリングモデルである「カテラ」を投入した。さらに1998年には、日本やヨーロッパの高価格車をターゲットにし、高出力エンジンと高品質な内装を備えた5代目セビルの導入を行い、その後顧客単価の上昇と顧客の平均年齢の低下をターゲットにしたブランド全体の刷新と再構築を開始した。

これ以降、1999年にキャデラック初の4輪駆動車である「エスカレード」を導入しアメリカをはじめとする世界各国の市場でヒットさせたほか、ル・マン24時間レースへの参戦などの積極的なマーケティング戦略を行い、高級車としての人気を復活させた。

なお、ブランド再構築の一環として、それまで「カテラ」や「セビル」、「デビル」などと名付けていた各車種の呼称を、2003年の「カテラ」の後継車種の「CTS(Catera Touring Sedan)」の導入を皮切りに、2005年に「セビル」を「STS」に、2006年に「デビル」を「DTS」にするなど、ラテン文字のアルファベット(ローマ字)を組み合わせたものに変更した。

現在

2004年にフラッグシップモデルとなる「XLR」と、新型SUVの「SRX」を導入するなどラインナップを拡大する傍ら、イタリアの宝石商、ブルガリとのタイアップを開始し更なるブランドイメージの向上を行った。また、2005年のフランクフルト・モーターショーで発表された、「シマロン」以来初の小型モデルである「BLS」を皮切りにヨーロッパ市場への本格導入を開始した他、ロシアや中華人民共和国など高級車需要が伸びている地域への導入を開始し、一定の成功をおさめている。

2007年以降のゼネラルモーターズの経営悪化を受けて、ポンティアックやサターン、ハマーなどのブランドは売却、もしくは閉鎖されることになったが、キャデラックは高いブランド価値と安定した販売実績から、シボレーやビュイックらとともに、ゼネラルモーターズの基幹ブランド、そして最高級ブランドとして引き続きゼネラルモーターズに残ると発表された。