日本における歴史

1910年代よりヤナセにより日本への輸入が開始された。当初より皇族や華族、政治家に愛好され、日米関係が悪化した1930年代の後半に至っても輸入が継続されたものの、1940年年に、日中戦争の影響を受けて個人利用のための自動車の輸入が禁止されたため輸入は中断された。しかし1941年12月の大東亜戦争の開戦後は、当時アメリカの植民地であったフィリピンや、中華民国の上海などで使用されていた多数のキャデラックが鹵獲、接収され、現地の軍関係者などの間で使用された。

御料車として使用された75リムジンの同型車(1950年)第二次世界大戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーの専用車として全国の一般市民にまでその名が知られることになり、その後も多くのハリウッド映画で「アメリカの富の象徴」として露出されたことから、日本でも庶民の憧れの高級車となった。

また、連合国の占領下の1950年には、それまで長年使用されていたメルセデス・ベンツに代えて御料車として導入され、1960年代にかけて使用された他、力道山や石原裕次郎などのスポーツ界や映画スター、更に児玉誉士夫などの実業家が愛用したことでも知られる。

力道山の弟子であるプロレスラーのアントニオ猪木は1972年に新日本プロレスリングを旗揚げした頃にキャデラック・エルドラドを自らの専用車として使用し、蔵前国技館など東京都内の大会場で試合を行う際にはキャデラック・エルドラドで会場入りしていた。ジャイアント馬場も師匠である力道山の薫陶を強く受けた為か、全日本プロレス旗揚げ当時から晩年までキャデラックを送迎車に使用し続けており、同じく力道山の弟子である山本小鉄も長年愛用し続けていた。さらに馬場の弟子である三沢光晴もプロレスリング・ノアのマット上で最期を迎える時までキャデラックを愛用し続けていた。

高級ハイヤーとしても使用され、1954年から1961年にかけて、日本空港リムジン交通(現:東京空港交通)では、数台のキャデラック・リムジン75及びセダン60シリーズや、クライスラー・インペリアル・リムジンを運行していた。

その後もGMの輸入権を持つヤナセにより、GMの最高級車種として多数のキャデラックが輸入、販売されたものの、ヤナセは2002年末に輸入権をサーブと共に日本ゼネラルモーターズに譲渡し、これによりヤナセはGMの自動車輸入事業から事実上撤退したが、その後も国内最大のディーラーとして販売を続けている。